美瑛の里から "徒然便り"

旧農家住宅のリフォームから始まる…美瑛町への移住日記です ♪

     "ボク達の行方"          長文で文字ばかりの、しょうもない回顧録

いつの頃からだろう? こんな へそ曲がりなオジさんに仕上がってしまったのは?

何かにつけて斜視気味な性分は、一体、いつ頃から根を下ろしてしまったんだろう?

結構長く文字ばかりの "しょうもない回顧録" です。逃げるなら "今" でしょうね、笑。

 

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十時時休みの珈琲タイム…体を動かしていないと火の気のひとつも欲しくなる季節

寂しい一人の秋の夜長に?ポツポツ書いていました。紙と鉛筆があればオジさんは

少しく落ち着くようです…デジタル化の時代 今は PC とキーボードというべきか、笑。

追伸:いつもの移住日記は 10月9日付の "薪屋の S さんのこと" をご覧ください、汗。

 

         "ボクの行方"

 

函館 "山" と言うと "丘" だろ?と外国人など面白そうに笑って返してきたものだが

確かに海に浮かぶ小さな島のように見えなくもない "箱舘" の町はそこから始まった。

洋館や和洋折衷の建物群を海上から望むと 新進的な港町と当時は目に映っただろう。

 

段々畑みたいな坂の主だった路から 細枝か迷路のように延びる小路に長屋が連なる、

電通りから一本坂上のバス通りの、そんな小路長屋の片隅に "ボク" は生まれた。

小路にメンコやビー玉で遊べる男子はおらず、広めな廊下が昔の遊郭っぽい 古びた

アパートの屋根の上で女子と鬼ごっこママゴト遊びに興じていた小学生になると

山麓界隈同級生達と橇滑りや三角ベースボールや探検と "ボクの世界" も広がるが、

港界隈は酒場や商店も多く子供達遊びも種類が違ったのか?また別の世界だった。

 

狭いながらも町には幾つも空き地があった。会社や誰かの敷地なのだが 別に追い出

れることもなく "ボク達" の草野球場だった。紅白に分かれ学級対抗など行われ、

女子に人気の、背も高く家柄もパワーもあるがノーコンな男子先発投手だった。

新一のから "シン" と呼ばれいた級友抜群の制球力と頭脳的投球は仲間内では

絶大な信頼得てはいたが、負けそうにならない限り出番はなく、いつもの展開に

飽き始めた "ボク達" も "シン" の登場と共に、再び 夢中で球を追い始めるのだった。

 

たまに元町の瀟洒な洋館に住む友人と遊ぶ時は、牡鹿の頭部剥製が飾られた応接間で

遊ぶ前に学習ドリルを解かねばならないのは面倒だったが、その後に現れる洋菓子は

楽しみだったし美味しかった。外で遊べぬ時は  女子の着せ替え人形よろしく紙片に

月光仮面一冊だけ買ってもらえた漫画本の主人公など描いては切り抜ぶつぶつ

呟きながらひとり遊びする、一歳上の姉と六歳下の妹に挟まれた軟弱な男子だった。

 

四・五年生の頃だったと思う、図画の時間の課題絵が 全道交通安全ポスター展か?

銀賞にな全校朝礼の壇上に呼ばれ 賞状と賞品をもらったことがある。好きだっ

たが上手な子はクラスに何人もいたし、驚いたのと ひどく恥ずかしかったのを覚えて

いる。最初で最後の経験だが、下手じゃないんだ? 子供心に刷り込むには充分だった。

そうそう テレビもなかったが、母方の祖父が新しいのを購入したが 行き場もないし

使って欲しいと 古くはないテレビを運んで来てくれたのも、この頃あたりだと思う

 

中学生になると 姉のお下がりの(当時 無償配布制度などなかったし、使えるものなら

兄姉から貰う。貧乏?たぶん普通はね?)必死で教科書の赤線や書き込みを消しながら

何故か英語に興味を持ち英語研究会に入部した。狭い中庭をバレーボールコートにした

船員養成学校だった木造校舎の急な階段を昇り、二階の教室で英文タイプライター

引っ張りだし時間を潰したものだが、部員がいたのかどうか? まるで思い出せない。

 

或る日、中庭を眺めると練習中のバレー部男女の中で 群を抜き上手な 溌溂とした

女子が目に飛び込んできた。翌年の春には、バレーボール漬けの毎日が始まっていた。

小学校時代の仲間との遊びも町での冒険も途切れたが、地区大会では男女共に優勝を

果たすという 漫画みたいな大団円でバレーボール漬けの毎日は終わるが、あ女子と

交換日記を始めていたという付録付きで 詩のようなものを書くのはそこで教わった。

 

男子の顧問はクーペ という軽自動車で通勤する国語の女先生で、まんま "クーペ" と

綽名れ 一年中 "ボク達" と一緒にボールを追っていた。後年、当時男女部員と共に

再会した時やったこともないバレーの、それも男子の顧問と指導を押し付

悔しさと負けず嫌い、スポーツ書を読み漁り、私的に他校の顧問教えうために

どうしても車が必要でね …"クーペ" の自動車通勤の真意を その時 "ボク達" は 知った。

 

なるほど練習試合ばかりで いつも負けて戻るチームだったのだが、少しづつ勝てる

やがて負けないチームになっていた。地区大会も迫る頃、地区外の学校へ練習試合に

連れていかれ、圧倒的な強さに為すなくボロ負けした帰り路に "クーペ" が 言った。

井の中の蛙達、良かったな地区外で、上には上がいるだろ? もう一回やる? 必死に

練習し直したし再度試合に挑み、やっと勝てて戻った。" ボク達" は見事に "クーペ"

の戦術に嵌まり その掌の上で踊っていた訳だが、教室の外での貴重な授業だった

 

高校三年の時だったろうか?学生運動があった。突然、授業放棄の放送が流れだし

Nonpolitical ノンポリ野次馬な "ボク達" がここぞとばかり講堂に集まっていると、

数年後の主任制度の改定で出世?したらしい、ジグザグデモを止める物理の "トクタ"

引きずリ回し進む一群の中に、数人の同級生と共に "シン" を見付け… 少し驚いた。

 

講堂で繰り広げられる光景はテレビで観たそのものだったが、講堂の片隅の見知らぬ

男達刑事だったということは、後から知ったことだった。やがて集まった生徒達の

好奇心も萎え始めると教師の呼びかけに呼応し授業に戻りだし、 先輩か大学生っぽい

連中が声高に演説し始めた頃には "ボク達" も 飽きた行こうぜ… の声で授業に戻った。

 

授業中の教室に殆どの級友達は戻っていた。金沢出身の太宰治みたいな髪型の古典

"オバラ" は 皮肉で冷笑的な物言いをする変った教師だが、唐突に "ボク達" に尋ねた

終わった?終わってない?彼等がどうなったか結末を確かめては来なかった?そうか

また知らないままか、まあ仕方ないかな … 溜息でもつく風に笑うと授業を再開した。

 

何か呑み込めなくて考えていたから どの位の日時が経過したのかもよく覚えていない。

釧路の高校の学生運動を鎮めたという校長が 急遽 赴任してくると、防火対策と称した

シャッターで各階段は閉ざされ、放送室は常時施錠されるようになり、体育館も講堂

時間制限され、見知らぬ男達の姿を時々見かけ…やがて "シン" の退学処分を知った。

 

ずっと "シン" の家の周りに刑事らしき人影があり、学業を怠る怠惰な学生だとか酷い

ことを書く新聞もあったらしく… かといい憤りを感じていたのに会いにも行けぬまま

この一件は語られることもなく、授業もサボりがちになり、山麓を徘徊し煙草を覚え、

深夜ラジオを聴いたり、父が定期購入していた文学全集の類の興味惹く凡そのものを

この頃に読んだ。なんにも見えない霧の中だったが それでも高校生活は過ぎていった。

 

進路を決められないままの簡略化された卒業式の日に、突然 "シン" は式場に現れた。

驚きもしたが "ボク達" は惜しみない拍手で迎えたはずだった。帰れ!何しに来た!

響いたのはブーイングの嵐、そして まばらな拍手が止まってしまう間もなく、劇的に

教師と見知らぬ男達の中で "シン" は消えた。99.9 %?の人達がそんな反応を示し

だから "ボク達" はいったい何者なんだと戸惑うと同時に "烏合の衆" という言葉の意味

が解ったような気がした。"ボク達" はどちらにだって成り得るのだ…ということも。

 

遅く稚拙な自己形成期だったのだろう。高校の受験勉強さえしたこともない "ボク"

一浪したが、受験勉強もせず、入学金も授業料も一番安い誰でも入れる東京の私大の

夜間部に決めた。行きたい土地ではなかったが、兎に角、ここから出たかったからだ。

 

姉の結婚を機に郷里に戻る約束を父にさせられいて、溜めた家賃や僅かな質草の回収

旅費の資金高速道路の建設現場の飯場に入って賄い、授業料滞納で除籍のままの

裕福でもない普通の家のバチあたりで親不孝な、四年弱の自堕落が終わりを告げた。

 

父の勤める地元の造船会社に臨時工採用された際の、身体検査評価が甲乙丙の "丙"

だったのを思い出したのだが、飯場でも土木工から何故か事務に回され…といっても

"ボク" を入れて二人だけで、給料から天引きされる布団代や一日に四合瓶一本だけと

決められている酒や前借金やらを毎日台帳につける仕事だが、農村からの出稼ぎ組や

絶対に関わるなと強く念押しされた山谷組や 色々な大人の日常を垣間見て過ごした。

 

何をしたいのか判らないまま 初めての賞与で油絵具一式を買ったが、上手く描けず

山麓の公民館で開かれていた地元画家の教室に申し込み、教室に並ぶ油絵群を見た後

石膏デッサンの方に決めた。一枚だけ、とても上手な木炭デッサンを見付けたからだ。

 

木炭デッサンの消しゴム替りにパンを使う… 立ち読みの美術書に書かれていたから

毎週、十字街の小さなパン屋さんで食パンの耳を買うようになった。タダでいいから、

苦学生にでも見えたのだろうか? ある時 オバちゃんはそっと袋を差し出してくれた。

訳を話してから夕食はパンとなり 袋の中には使う分だけのタダの食パンの耳があった。

イーゼルを運ぶ音の響く地下教室への階段を降り…何枚もデッサンを消しては描いた。

 

油絵には顔を出すようだが石膏デッサンには来なかった画家が、あの夜は顔を出すと

ピカソがどうのこうのと言いながら生徒のデッサンに肘や脚の線を描き始めた。素人

デッサンではあるにしても 合作でもあるまいに 人の絵を汚すな…そう思ったらしい。

ありがたくもない その無神経さが ひどく気に障ったのか? 絵画教室はそこで終えた

また、いつもの書店の書籍や道すがらに出会う個展や展覧会の類が教室になった。

スケッチブックを抱え 港周りを漂う時は、時々はオバちゃんの店でパンを買った。

 

どんな同窓会にも参加したことはなかったが、バレー仲間の誘いに 初めて 小学校の

同窓会に参加した。担任の女先生は昼休みに校庭 "ボク達" と遊ぶ。給食を終え

我先にと列に並び 一対一で投じられる 先生の強烈で容赦ないサイドスロードッジ

ボールを全身で受け止める遊びに、夢中だったことを忘れてはいなかったからだ

一人一人の顔も名前も憶えてくれていた先生と共に、老けた "ボク達" が揃っていた。

 

いつの時代もいる情報通に ”シン" のあれからを尋ねてみた小説を書きたいと言って

いたこと、"ボク達" の卒業の後に町を離れたこと、東京で山谷の日雇い労働者達の

支援活動をしていたこと…等々。まだそんなことしてるはずだ、小説なんて簡単にゃ

書けねぇし、退学食らった中卒だし、普通にやってりゃ良かったんだ… 彼は言った。

いいだろ やりたいことがあって今もやれてるなら…そう答えると 呆れたような顔で

離れていった。長いこと喉元にあった棘が抜けたような、胸のつかえが下りたような

気持だった。いいんだよ オマエは それで…そんな ”シン" の声が聞こえた気がした。

 

気付くと、あの頃のボール遊びの話を皆でしていて 慌てて その輪へ加えてもらった。

しっかり受けようと頑張るあなた達の真剣な顔を見てるとね、子供だっていうよりも

一人の人間同士だからね、それは先生だって真剣に投げるわよ。でもね少しづつ上手に

なってく、成長してくあなた達を感じていられるのはね、それは嬉しいもんなんだよ。

優しい言葉と微笑む先生を見詰める…一瞬にしろ、純真な "ボク達" が 其処にいた

 

ある瞬間まで "ボク達" は同じ小学校の校庭で夢中でボール遊びもし 同じ中学へ進み

同じ高校へも通ったのだ。あの頃の "ボク達" の前には人の数だけ路は存在していたし

丁寧に教えて貰えるなら、知るべきことも 知りたいことも 星の数ほどあったはずだ。

それぞれの秒針が異なる時を刻み始めたとしても、選べる路は残されて在るべきだ。

 

思いもかけぬところで "ボク達" は良くも悪くも踊らされてしまうし、優しい心や

人に出逢っても "ボク達" は "ボク達の行方" をよく確かめようともせず歩いて来た。

栄光も挫折も足許に絡まり歩きにくいだけだし、都合よく何処かへ戻れる由もない。

鈍感のなせる業か感受性の欠落? どちらも "ボク達" は 今も両手に持たされたまま。

乳臭い瞳をもたげ 危なっかしい独り立ちを覚えた瞬間から、どうあれずっと永遠に

 

微睡みすぎた "ボク達" を誘うように、今となっては一本の路しか残ってはいない。

古い地図とコンパスしかなくても 今度こそ 此処が何処かを 確かめながら行けばいい。

もう歩けやしないのに まだ歩きたいというなら… 杖でも作るか 手を取り合ってね。

いくらも時間は残っていないにしても "ボク達の行方" ぐらいは 知りたいのだから。

 

 

~ 2020年10月11日、ご精読?ありがとうございました、笑。